日本で生まれた懐かしの名車ダットサン。
小型車の代名詞で多くの人々に親しまれたダットサン。
立派な先人達が幾多の困難を乗り越え、このダットサンと共に日本の“くるま史”の1頁を築きあげてくれました。
しかし、この愛すべき、誇り高き名車の名が往々に消え去ろうとしているのです。これ程までにひとつの時代、生活に密着した産業技術は外に見当たりません。このままでよいのだろうか?ダットサンに寄せる熱き想い、その愛惜の念は私の脳裏に、胸底に焼きついて離れず、この名車ダットサンの動態保存を護り、その精神、その魂、その魅力の総てをいかに正しく次世代に継続させたものか…今の自分たち世代にこそ、義務と責任その使命が負わされていると思わずにはいられません。
明治の人力車、大正の自転車、昭和のダットサンと、思えば…
★私の学生時代(芝浦工大)自動車部の教材は、全てダットサンであり、仲間達とやりくりしながらの、楽しく乗りまわした車がダットサンであった事が、その後の私の人生に大きな影響を施した事は紛れもない事実であります。青春とは、その人のハートの中にあるものを指して言うのなら、ダットサンはまさに私の青春そのものであった訳です。
★その後、日産自動車(株)様の記念車のメンテナンスを仰せつかる好機を得て、私のダットサン熱もそのエンジンの如く、発火し人生バラ色ならぬ、ダットサン色に染まった輝きは、更に色濃く塗り替えられたのであります。日産自動車の大切な財産を公言して、相すまぬ事でありますが、何と言っても昭和初期のあの時代を力強く、しっかり働いてくれた多くのダットサンに対面出来るだけでも興奮でありますのに、メカ冥利に尽きる喜びと感激は筆紙に尽くせるものではありません。私達のまごころからの対応にダットサンも待ち望んでいたかのように、素直に答えてくれるのが又、実に嬉しいのであります。ピッカピッカにお化粧しますと、その気品溢れる素晴らしさは、あの時代、たくましく必死に生き抜いた純日本人の心、そのものを象徴しているかのように魅了され愛しさを増します。
★そんな人間の内面性、或いは高齢化を反映してなのか、社会全般、車に限らずだが、興味のターゲットがクラシックカーに向きつつあるのは事実で、世界共通の感を深めました。と申しますのも昭和62年(1987年)夏、私はダットサンレーサー(1936年式)と共にグレートアメリカンレースに参加出場して参りました。そこでは国境を越えた、数多くのクラシックカーレースのドラマが展開されました。アメリカという大国が刻む“人と車の大きな歴史”があり、豊かさがあり、クラシックカーのイベントの1つである“グレートアメリカンレース”も、カーマニアのスケールの大きいお祭りであります。大らかな規制で、人々は車と楽しむ国情の違い、車文化の違いを羨む面、学ぶ面、大いなる刺激の洗礼を受けて来ました。私のように国産のクラシックカー、ダットサンのみを愛し、その関りに誇りを持つ者にとって、この体験はいつか同士と共に国内での実現を、の想いに勇気と希望を授けてくれる源泉となりました。
★この様にして、私もダットサンとの出会いから数多くの関わりに一喜一憂の歳月を経てきた一人ではありますが、心強いことに全国にダットサン愛好家は無限に居られます。中でも意を同じくする力強い仲間の支援と、同胞に推され、昭和60年(1985年)9月 私を軸に全日本ダットサン会なる組織を日産自動車の膝元、当地(東京都港区)に誕生させ、既に幕は落とされています。さきに述べましての通り、永年心に秘め培ったダットサンを想う心の叫びを、21世紀に向け具体的実践するのみ、舞台装置は整いました。
依ってダットサン会には◆大切で且つ重要な使命があります。そして◆壮大な目標があります。更に、◆元、青年諸氏自身のロマンを育みながら新しい同志たちへ夢とロマンを与える喜びがあるのです。
●おかげさまで全国に同志も、ファンもずいぶん増えました。
●東京本部には、小さくたって力があって、ピッカピッカのボディに胸はって元気はつらつのダットサンの顔も大分揃いました。
●壮大な目標、ダットサンの資料館、記念館の夢も一歩一歩近づけています。
●ダットサンに限る、技術者、認定書、発行者も数十名に達しました。
ダットサン愛好家の同志、諸兄!!
21世紀も もう間近です。
お互いの 愛車に寄せる 熱き想いを 21世紀の 虹の懸け橋として
ご一緒に歩もうではありませんか。
佐々木 徳治郎
(1990年頃執筆)